FC2ブログ

無窮 i ラボ Blog

知的ネット社会、知そのもの、機械との共生、プログラミングに関して。

 
 




関連:

ずがこうさくのじかんは、
じょうずに えをかいたり
じょうずに ものを つくったり する
ことが、めあてでは ありません。

きみの めで みた ことや、
きみの あたまで かんがえた ことを
きみの てで
かいたり、つくったり しなさい。
こころを こめて
つくって いく あいだに

しぜんが どんなに すばらしいか、
どんな ひとに なるのが
たいせつか、
と いう ことが
わかってくるでしょう。
これがめあてです

〔「このほんをよむひとへ」『子供の美術 1』現代美術社出版 1980年〕

スポンサーサイト



 このエントリーをはてなブックマークする このエントリーを含むはてなブックマーク
フランスの文系バカロレア(大学入学資格試験)のディセルタシオン(課題論文)では、いかに正しく、過去の名文を引用するかが重要だという (参考: 鹿島 茂 : 悪の引用句辞典 - マキアヴェリ、シェイクスピア、吉本隆明かく語りき (中公新書, 2013) p.ii.)。

江戸時代の学校では、四書五経(論語など)が重視された。記憶の訓練や修養にはよいであろうが、それが有能な行政官を育むとは、私は かつて思えなかった。

最近になって考えていることは、過去の名文や四書五経が人々に与えたのは、The meaningではなく、A meaningだということだ。

重要な意味(The meaning)ではなく、意味のうちの一つ(A meaning)だということだ。

意味をもつ言葉は、概念をつなぐ。遠く離れた概念をつなぐ行為が、思考だ。よって、意味をもつ言葉は、思考のピース、レゴブロックのようなものなのだ。

いろいろなレゴブロックをもっていれば、いろいろな形を形づくれるし、何より早く作れる。そして、「早く」に「人数」や「時間」を掛け算すると、「大きなもの」・「よく準備されたもの」になるのである。

名文や四書五経は、広く意味が共有されていたので、「人数」がいても「時間」が経っても意味がブレない。名文や四書五経を引用するのは平凡かもしれないが、標準語がなく、統一的な教育が実施されない世界で、名文や四書五経は、不可能を可能にした。創造の中心に位置したのだ。高度の平凡性である。

対して、名文や四書五経以外の、創作された文は、非凡な創作物ではある。しかし、文は共有されないし、意味も正しく伝わらない。「サブ」カルチャーであったのだ。

非・情報社会での話ではある。しかし、現代においても、非・情報社会で情報社会を実現する方法を知っていることは、役に立つだろう。我々の周りは澄み切っているわけではない。

初出:
Facebook 2019/ 7/16
 このエントリーをはてなブックマークする このエントリーを含むはてなブックマーク
映画「インターステラー」(2014)と「チャッピー」(2015)は、一部(「インターステラー」でのマン博士)または全部において、知性の中で生存本能を最上位に据えて描いたところが共通している。

「インターステラー」
公式
Amazon Prime Video (1:56:00~)

「チャッピー」
公式
Amazon Prime Video

初出:
Facebook 2019/ 1/27
 このエントリーをはてなブックマークする このエントリーを含むはてなブックマーク
行く年 2018年は、「serial experiments lain」アニメ化 20周年の年でした。

「serial experiments lain」第6話

0:42~

たいしたもんだねぇ。そこまでリアルワールドの姿をメタファライズして、このワイヤードに来れるとは。


このシーンからの想起:

メディアとしての人体は、これまで人間にしか表現し得なかった。

しかし、現在、バーチャルYouTuber(VTuber)という形で、人工的な全身の3D映像が一般化した。

今のVTuberには、「中の人」がいる。この状況は、メディアとしての人体を通じて、ヒトがもっている知識の一部を、ヒトが受けている状態で、従来と変わらない。人間社会の中で知識が掛け合わされ、編集されている状態である。

しかし、早々に、「中の人」はいなくなる、あるいは高度に自動化される。その時、我々が対するメディアとしての人体を直接に司るのは、知能をもった機械である。

初出:
Facebook 2018/12/30
 このエントリーをはてなブックマークする このエントリーを含むはてなブックマーク
『機動戦士ガンダムNT』冒頭23分 - YouTube

ナラティブ」から、想起された思索:

旧約聖書の『創世記』(即ち、欧米的感覚)によれば、神が 天と地の次に、光を創る際に、神は「光あれ」と言った。よって、原始より、意味をもつ内容を表わす言語は存在した。

この感覚によれば、言語は神と一体、あるいは一対である。

新約聖書の『ヨハネによる福音書』の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」である。

ここで、〈意味を成す一連の言語〉と〈意味を成さない言語の集合〉の対立関係が思い浮かぶ。この関係が、神と言語の関係に相当するのではないか、と発想するのである。

高度な〈意味を成す一連の言語〉が、ナラティブ(物語)である。

神の研究の主要な一形態は、神の創造である。その行為の写像として、〈意味を成さない言語の集合〉から〈意味を成す一連の言語〉への変換行為に挑まれたことだろう(*)。

その技術は、ナラトロジー(物語学)に体系化された。

また、ボルヘスの「バベルの図書館」は、ナラトロジーなどに基づく知的行為が無くでも、〈意味を成さない言語の集合〉から〈意味を成す一連の言語〉への変換行為が可能であることを、表現した。ボルヘスの意思とは関わりないが、これは、神の存在証明の一つであり、神の創造に必要な技術分野を示唆するものであった。

*:図書館情報学や、Google社の使命である「世界中の情報を整理し」も、その一形態に位置付けることができる。

初出:
Facebook 2018/12/ 1
 このエントリーをはてなブックマークする このエントリーを含むはてなブックマーク