無窮 i ラボ Blog

知的ネット社会、知そのもの、機械との共生、プログラミングに関して。

 
 

要約: 表現者・生産者ではない人々による支持・称賛は極めて重要である。


ラファエロの絵画「アテネの学堂」には名だたる哲学者たちが描かれている。この絵画は人気があり、西暦1510年ごろに描かれたが現存している。

さて、本記事のタイトル“「アテネの学堂」のこちら側”とは、絵画を見ている側を指す。

絵画「アテネの学堂」の価値は、“こちら側”の支持・称賛によって支えられている。

この支持・称賛の対象には、絵画の美しさと絵画のテーマがある。

後者は即ち、思想・知的なものへの支持・称賛である。

表現者・生産者ではない人々による支持・称賛は極めて重要である。

関連引用:
"Everyone is an artist"? | *arts marketing.jp

>「価値」には2つあって、「対価」としてあらわれる価値と、「称賛」としてあらわれる価値があると思うのね。(この「称賛」という言葉もちょっとうまく言えてない気がするけど、こちらも暫定的に。)
でも、今は「価値」=お金になる、産業になる、としか考えていないんじゃないんかな、って政策が多いような気がする。※例は割愛。いつか改めてエントリするかも
それももちろん大事だけど、でも順番としては、「創造されたもの」と「それを作った人」に対し、それを認めること・・・「称賛」があって、初めて「対価」というのは発生されるのだと思う。
その「称賛」のシステムつくりというか土壌作りというか、そういうのが抜けちゃっているんじゃないかと


内田 樹 : 街場のメディア論 (光文社新書, 2010) p.171.

>誰かが「これは贈り物だ」と認識して、「返礼せねば」と思うまで、それは厳密な意味では「贈り物」ではないのです。その品物には「ハウ」は含まれない。返礼義務を感じたものの出現と同時に「ハウ」もまた出現する。贈り物そのものには「ハウ」は内在していない。「これは贈り物だ」と思った人の出現と同時に、贈り物は「ハウ」を持ち始める。


内田 樹 : 街場のメディア論 (光文社新書, 2010) p.184.

>「ものそれ自体に価値が内在するわけではなく、それを自分宛ての贈り物だと思いなした人が価値を創造する」


水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008) p.144.

>学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。


水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008) p.302.

>国語教育の理想を、すべての国民が書けるところに設定したということ、国民全員を〈書く主体〉にしようとしたこと――それは、逆にいえば、国語教育の理想を〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることに設定しなかったということである(...)。ところが文化とは、〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない。〈読まれるべき言葉〉がどのような言葉であるかは時代によって異なるであろうが、それにもかかわらず、どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉がある。そして、それを読みつぐのが文化なのである。

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言葉を知るということは、思想を知るということである。

言葉の意味は、思想である。辞書・辞典に著された意味は、整理されていて理解しやすい。

言葉そのものは、その意味=思想を指し示すインデックス、即ちメタ知識である。

言葉とその意味の組み合わせは、思想のたいへん使いやすい形態である。
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真実はその時代の人が決めることであり、また慣性をもつ。


● 真実はその時代の人が決めることである。

 我々の知的生産は、結局は、将来の人に選択肢を用意することである。

● 真実は慣性をもつ。即ち、真実の修正は逐次的であるか、時間をかけて行われる。

 我々の知的行為は、知的真摯さをもって、現時点における真実の見直しを行うことである。真摯さをもって見直しが行われた真実は、慣性によって、将来の真実を良いものにする。
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「市民」(政治的な意味をもつ「市民」)の集合によって成立する知的システム(コミュニティ・意志決定システム・統治システム)には、以下の性質が望まれる。

分散

権力が分散している、あるいは権力と権威が分散していること。

(鳥の目)

多様

所属市民は各々様々であること。

(虫の目)

相対 (非絶対)

一人の市民、集団(全体の部分、小さな知的システム)、全体(大きな知的システム)といった あらゆる段階において、互いに矛盾する第1の考えと第2(、第3、……)の考えを持つこと。

(フラクタル)
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大局的な見方をすれば、消費的な知的行為は、フィルタリングがその本質的成果である。

フィルタリングは人類の知の質を上げる。

消費的な知的行為がフィルタリングに寄与する理由は、それが行為であり、行為ゆえに制限があるからである。

 行為の制限=有限の能力×有限の時間

補足:
同時に、生産的な知的行動にもフィルタリングが隠れている。

 ・生産的な知的行為:

 0 or 1→100 になるところ、
  実際には
 0 or 1→10 (100 から 10 へのフィルタリング)

 ・消費的な知的行為:

 100 → 100 になるところ、
  実際には
 100→ 10 (100 から 10 へのフィルタリング)
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