無窮 i ラボ Blog

知的ネット社会、知そのもの、機械との共生、プログラミングに関して。

 
 



情報社会は、個人間の情報の偏りを生んだ。

大手メディアは、万人が持っている知識を前提に記事を書くため、知っている人には、たいへん遅れた記事になる。

(さらに、記者は、個々の分野に精通しておらず、また完成した記事を情報源に確認することがないので、記事にはなんらかの誤りがよくある。)

その結果、大手メディアの報道だけでは、世の中の知的レベルの低下を感じ、不安になる。

そうかといって、個人的な活動ならともかく、企業活動の当事者(:報道対象の会社の社員)が、メディアの記事の(大同小異の)「小異」部分の訂正を明らさまに配信することは、難しい。

そこで、テーマについてよく知っている第三者の情報発信が、社会の役に立つ。

大手メディアではない第三者の詳しい人の情報発信が、情報社会において、テーマの業界と世界の知性を安心化させる。

第三者であるから、社会(という広がり)のなかでの持ちつ持たれつの関係である。この関係に、予め気づくことは、難しい。この関係を時々思い起こさせ、意識に定着させる仕組みが必要である。

初出:
Facebook 2017/ 5/28
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夏生 さえり さんが書いた、池澤あやか さんとの対談記事『池澤あやかさんに聞く「今更ですが、プログラミングって何ですか?」』。

これは、マウスコンピュータのプロモーション『Hello,Girls! -プログラミングとの出会いが未来を変える-』の一部です。

この記事を読んで、想起されたことをまとめます:

● まず、内容から:



● マウスコンピュータのプロモーション意図を考えるに:


{2017/ 7/ 7 追記:} ※本tweetで紹介している 遠藤 諭 氏の記事を読み返したところ、主旨は合っていますが、「PCは賢者のディスプレイ」という表現はありませんでした。「世界を〝プロアクティブ〟(率先して) に動かす人たちは実のところPCを使っている」、「[スマートフォン、タブレットは、] もっぱら消費的な“愚民化装置”といいたくなる」という表現でした。申し訳ありません。

● 文章構成について:



なお、同じく『Hello,Girls! -プログラミングとの出会いが未来を変える-』の一部である『Q &anp; A ゼロからプログラミングをはじめるあなたへ』の内容は、池澤 あやか さん の著書「アイディアを実現させる最高のツール プログラミングをはじめよう」に似ています。
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VRがもつ可能性のひとつは、人工進歩である:



初出:
Facebook 2017/ 5/14
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なお、成功(:将棋に勝つこと)が理解(:“読み”。即ち、将棋の思考)に先行することを、恐れることはない。

ミネルヴァの梟という例えがあるように、「哲学は、常に現実を後追いし」、「技術の相当数はまず成功した後にその理論的理解が生まれ」るものなのだ (知能は知性に先行する)。
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2017年 2月4日、決断速度と質の向上システム「決断改善システム」の公開を開始しました。

  決断改善システム

決断の速度と質を向上させるのに資する TBS「逃げるは恥だが役に立つ」(2016) の一節 *1 を、〈再生されるべきシーン〉*2 として陽に扱います。

我々は、時に娯楽や芸能を軽視しますが、
労働者が翌日も労働力を出力できるように回復するためには、特に、食・住・娯楽が必要である。現代の労働者は、知的成果物を出力している。よって、食・住・娯楽と知とは、表裏一体である。
芸能は、聖と俗をつなぐもの。
そして、日本神話「天岩戸」における、芸能神・アメノウズメの活躍を鑑みれば、
その働きは、大であることが分かります。

初出:
Facebook 2017/ 2/12


*1 「逃げるは恥だが役に立つ」(2016) 4話より:

森山みくり、小賢しさフィールド全開!
どうせ小賢しいのなら小賢しさのすべてを賭けて平匡さんに正面から挑む!
さぁ、どうする? 津崎平匡。
どうする? どうするどうする?



*2 水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008)の〈読まれるべき言葉〉からの発想。

水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008) p.144.

学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。

水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008) p.302.

国語教育の理想を、すべての国民が書けるところに設定したということ、国民全員を〈書く主体〉にしようとしたこと――それは、逆にいえば、国語教育の理想を〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることに設定しなかったということである(...)。ところが文化とは、〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない。〈読まれるべき言葉〉がどのような言葉であるかは時代によって異なるであろうが、それにもかかわらず、どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉がある。そして、それを読みつぐのが文化なのである。


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